大判例

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大阪地方裁判所 昭和58年(わ)4819号 判決 1985年8月27日

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中一四〇日を右刑に算入する。

この裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予する。

押収してある黒色皮製紐一本(昭和五八年押第一〇七七号の二)を没収する。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は、三重県○○市において出生し、同地の尋常高等小学校を卒業後、しばらく看護婦見習をしたのち、昭和一四年ころ亡甲田一郎と結婚し、同人の仕事の関係から台湾で所帯をもつたが、終戦により日本に帰国し、○○市内に居住していたところ、夫一郎が大阪市内の材木会社に就労したため、同人に伴つて昭和三四年一二月ころ来阪し、以来、同会社が経営する大阪市都島区都島本通○丁目△番×号所在のアパート「○×荘」に住み込み、同アパートの管理人をつとめていた。被告人は一郎との間に三男一女をもうけていたところ、昭和四九年六月ころから次男の甲田二郎とその妻の春子が「○×荘」の一室に居住するようになり、そのうち、右夫婦らの間に三郎、四郎(昭和五二年一月二八日生)の二子が誕生した。

ところが、夫一郎は、昭和四六年ころから肝臓を害し、入退院を繰り返した末、昭和五六年一月死亡したが、この間、被告人は、管理人としてのつとめのかたわら、医療費捻出のためビル清掃のアルバイトを継続しつつ、文字どおり献身的な看護を尽した。また、右二郎はタイル工という仕事柄、出張が多かつたこともあつて、春子が他の男性と情を通じるようになり、昭和五六年一〇月ころこれに気づいた被告人は、二郎夫婦間の調整のため更に心労を重ねた。このような心身の苦労に老齢化の影響も加わり、被告人は、そのころから不眠、身体疲労感、胸部圧迫感といつた心身症状を訴え、通院治療を受けるようになつた。

その後、昭和五七年一〇月末に至つて、被告人の気をもませた春子がついに出奔し、二郎は、やむなく実妹の乙山夏子方に三郎と四郎の両名をあずけ、同女の夫の仕事を手伝つていたが、妻に逃げられたこともあつて深酒に走り、怠業することが多かつたため、夫に対する気まずさを感ずるようになつた乙山夏子から被告人に相談が持ち込まれ、結局、被告人が孫である三郎と四郎の世話を引き受けることとし、昭和五八年四月三〇日ころから二郎一家を「○×荘」一階一五号室に住まわせ、その面倒をみていたが、二郎の深酒は止まず、帰宅せぬ父親を待ちわびる孫達をみて、ことのほか不憫に思うようになつた。

被告人は、右のとおり既に各種の心身症状を呈していたものであつて、孫らの世話をすること自体、心身ともにかなりの負担となつていたところ、同年七月下旬から孫達の学校が夏休みとなり、その面倒を一日中みなければならなくなつて、負担が一層増大し、著しい疲労感を覚えるようになつた。また、被告人は、それまでに、春子が残していつた借金の返済や二郎一家の引越費用等に多額の出捐をなし、老後のための預金もほとんど使い果たしていたため、時に孫達の世話をアパートの住人に依頼したりする際の謝礼について苦慮するようになつたこともあつて、強い不安感を感じるようになつた。

そのため、そのころから、被告人には、長女である前記乙山夏子に頻繁に電話をかけ、「二郎が酒を飲んで帰宅が遅い。孫達がかわいそうだ」と愚痴をこぼすなどの異常な行動が目立つようになつたが、被告人は、元来気丈で責任感が強く、他人に迷惑をかけるのを嫌う性格であつて、その後も体の不調を押して孫達の世話を続けるうち、疲労感や不安感が一層高まり、同年九月中旬以降、しきりに「疲れた」などとつぶやいたり、長女に対する前記のような繰り言を早朝や深夜にまで行なうようになり、同月一八日ころには、希死念慮を抱き、二郎に対し「死んでも葬式を出さなくてもよい」などと漏らすようになつた。

(罪となるべき事実)

被告人は、右のとおり希死念慮を抱くようになつたが、その後、もし自分だけが死ねば孫達の世話をするものがいなくなり、孫達が不憫であると思われたため、いつそ孫達を殺害したうえ自殺しようと決意するに至り、同月二〇日深夜、「いつの日かこの子供達に幸いになつてもらいたいと夢みつつ行きます」などと記した遺書をしたためたうえ、翌二一日午前七時ころ、前記「○×荘」一階一五号室において、就寝中の四郎の頸部に黒色皮製紐(昭和五八年押第一〇七七号の二)を巻きつけて強く締めつけ、よつて、そのころ、同所において、同人を窒息により死亡するに至らせて殺害したものであるが、右犯行当時、被告人は、うつ病に罹患していたため、心神耗弱の状態にあつたものである。

(証拠の標目)<省略>

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法一九九条に該当するところ、所定刑中有期懲役刑を選択し、右は心神耗弱者の行為であるから同法三九条二項、六八条三号により法律上の減軽をし、その刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中一四〇日を右刑に算入し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予し、押収してある黒色皮製紐一本(昭和五八年押第一〇七七号の二)は判示殺人の用に供した物で被告人以外の者に属しないから、同法一九条一項二号、二項を適用してこれを没収し、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。

(弁護人の主張に対する判断)

判示認定のとおり、当裁判所は、本件犯行当時、被告人はうつ病に罹患していたため心神耗弱の状態にあつたものと認めたわけであるが、弁護人は、被告人の罹患したうつ病はかなり重度であり、被告人は心神喪失の状態にまで至つていた旨主張するので、以下検討することとする。

被告人の精神状態については、医師永島文夫、同濱義雄による各精神鑑定がなされているところ、本件犯行当時、被告人がうつ病(昭和五八年七月ころ発病)に罹患していたことは、両鑑定ともこれを一致して認めている。すなわち、被告人は、元来、真面目、律義、仕事熱心で、責任感の強い人物であり、うつ病に陥りやすい性格(いわゆる「メランコリー型性格」)であつたところ、判示認定のように次々と心労が重なり、老齢化も手伝つて既に心身症状を呈していたのに加えて、新たに孫達の世話をするという「生活苦難状況」を体験したため、不眠、倦怠、不安、希死念慮などのうつ病特有の病状があらわれ、この希死念慮から不憫な孫達を道連れにするとの無理心中意志が形成され、本件犯行をなすに至つたものとして、当時うつ病に罹患していたと鑑定しており、このこと自体、判示認定のような事実に徴し、十分に首肯し得るところである。しかしながら、うつ病の程度については、濱鑑定が、「軽度うつ病」であり、「理非弁別力に従つて行動する能力の著しく減弱した精神状態」にとどまるとして心神耗弱に帰結する判断を示しているのに対し、永島鑑定は、「重度な病的精神状態」にあつたとして心神喪失に帰結する判断を示し、互いに対立するものとなつている。

そこで、この点について検討するのに、前掲の関係各証拠を総合すれば、次のような事実が認められる。

1 本件犯行当時、幻覚や妄想が出現した形跡はなく(但し、被告人は、逮捕後一か月余りにわたり、房の窓に天狗の顔のようなものを見、こつちへ来いとの声を聞くなどの幻覚・幻聴を体験しているが、これは、拘禁生活に対応した心因性のものと考えられる。)、意識障害も生じていないこと。

2 被告人は、犯行の前日、「火の玉が胸の中でくるくる回る」と被告人自ら形容する苦悶発作に襲われており、これもうつ病の一症状とみられるが、このような苦悶発作は、右の一回のみに限られており、しかも、右苦悶発作は、希死念慮及び無理心中意志の形成とは無関係であること。

3 被告人の罹患したうつ病は、内因性というより反応性の色彩が濃く、判示のとおり無理心中意志を抱き本件犯行をなすに至る経緯や動機についても、通常人からみて必ずしも了解不能とはいえないこと。

4 犯行前後の状況をみると、被告人は、犯行前日に文字、文脈ともに乱れのない判示の遺書をしたためたうえ、犯行当日には、まず前記二郎に朝食をさせて仕事に送り出してから四郎を殺害し、その後、同人の顔面をハンカチで覆い、「いい所へ三人で行こうね。四郎ちやんごめんね。」とのメモを残したうえ、三郎を外へ連れ出し、京阪電鉄京橋駅ホームにおいて、三郎の手を引き飛込み自殺を企図したが、同人の抵抗により失敗に帰したのち、京都府下の前記乙山夏子方を訪れ、同人方で「四郎死なせてしまつた。三郎はなかなか死なないので死場所を探す。」旨の遺書を書いたものの、以後何もしないまま「○×荘」付近まで戻り、三郎に管理人室の鍵を渡して財布を取りにやらせるなどしているものであつて、もとより一貫性を欠く点においてうつ病の特徴があらわれているものではあるが、なお相応の判断力が残存していることを窺わせる行動も少なからず見受けられること。

5 本件犯行前に、乙山夏子方に昼夜を問わず頻繁に電話をかけるなどの異常な行動はみられたものの、二郎一家の食事の世話を含めて日常の家事については、犯行直前まで通常どおり継続しており、アパートの管理人としての仕事についても、特段の支障が生じていた形跡はないこと。

以上の各事実が認められる。もつとも、被告人は、犯行当日の朝、二郎を仕事に送り出したのちの状況について、捜査段階の途中から公判を通じて、「一五号室へ行つて四郎を起こした。そのころから身体が熱くなり、何かにとりつかれたようになり、その後の記憶がない。」などと供述し、犯行直前に苦悶発作に襲われたことや犯行状況に対する健忘があることを訴える。しかしながら、前掲の関係各証拠によれば、被告人は、前記のとおり犯行直後に「四郎ちやんごめんね」などと書いたメモ(本件犯行現場)や「四郎死なせてしまつた」などと記した遺書(乙山夏子方)を残しているばかりか、犯行当日に緊急逮捕された時点から勾留質問の段階までは、動機や犯行手段を含めて本件事実を自白していたことが認められるのであり、本件犯行が前日に遺書をしたためるなど計画的なものであつて、発作的なものではないことをあわせ考慮すると、本件犯行の直前に苦悶発作に襲われたとの点はにわかに措信できず、犯行状況に対する健忘についても、本件犯行時における意識障害を疑わせるものでは到底ないというべきである。濱鑑定及び永島鑑定に徴すると、右の健忘は、不快な体験を思い出したくないとの心理のもと、無意識的に意識からこれを追い出そうとするいわゆる抑制の機制によつて、本件犯行後に至つて初めて生じたものと認めるのが相当である。したがつて、被告人の右供述は、右認定に何ら影響を与えるものではない。

右認定の諸事実を総合勘案すれば、被告人の罹患したうつ病は、たしかに本来の人格に対しかなりの影響を与えていたことは否定できないけれども、人格を完全に支配していたとまではいい難く、被告人においては、なお本来の人格に基づく判断力により犯行を抑止し得る余地がわずかながらも残存していたものと認めるのが相当である。これに反する永島鑑定の結論は採用できず、濱鑑定の結論をもつて正当と認める。

以上の説示のとおり、本件犯行当時の被告人の精神状態は、心神耗弱にとどまるのであるから、弁護人の右主張は理由がない。

(量刑の理由)

本件は、判示のとおり、母親に逃げられた孫二人の面倒をみていた被告人が、その生活に疲れ果てた結果、孫達と無理心中しようと決意し、孫のひとりを殺害したという事案であつて、就寝中のまつたく無抵抗な被害者の首を絞め、幼い生命を無残にも奪つた行為は厳しく非難されなければならないうえ、残された孫に与えた精神的衝撃も大きく、被告人が体験した生活苦難の状況については、近くに居住する息子らの援助を受けることによつて容易に解決し得たことなどをあわせ考えると、犯情は悪質であつて、被告人の刑事責任は重大であるといわなければならない。

しかしながら、被告人は、判示のとおり本件犯行当時うつ病に罹患していたため心神耗弱の状態にあつたものであつて、刑責の大幅な軽減を認めざるを得ず、加えて、犯行に至る経緯をみても、永年にわたり苦労を重ね、既に耐性の限界を超えていたのに、持前の気丈さと責任感の強さから他に頼ろうとせず孫達の世話を続けたため、その疲労感等から無理心中意志を抱き、本件犯行をなすに至つたものであつて、その経緯と心情には同情を禁じ得ないことのほか、被害者の父親も、本件の遠因が自己の非にあつたことを認めて、その生活態度を十分に反省し、被告人に対しても宥恕する気持になつていること、現在被告人は本件犯行につき健忘を訴えているものの、自分のために被害者が死亡するに至つたことについての認識は有していて、反省悔悟の情も窺えること、被告人は高齢かつ病弱であること、前科前歴がまつたくないこと、被告人の親族においても、被告人に対する配慮が十分でなかつたことを自覚し、今後は被告人の環境調整を図る旨誓約していることなど被告人に有利な諸事情も認められる。

そこで、これらの諸事情を対比衡量してみると、被告人に対し実刑をもつて臨むことはいささか酷にすぎ、社会内において親族らの監督のもとに自省を深めさせ、被害者の冥福を祈る日々のもとに余生を送らせるのが相当であると思料され、心神耗弱による法律上の減軽をしたうえ、主文掲記の刑を量定し、その執行を猶予することとした。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官岡 次郎 裁判官坂井満 裁判官奥田哲也)

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